【公演レポート】センチュリー豊中名曲シリーズVol.31「散歩する星」
2024年10月30日
文筆家・評論家・音楽ファンなどそれぞれの視点から、主催公演を実際に鑑賞して記されたレポートをWEB上で共有するコーナー。2024年度のセンチュリー豊中名曲シリーズ2回目の公演「散歩する星」のレポートが、音楽ライターの逢坂聖也さんから寄せられました。
―2024.10.5(土) 15:00開演 豊中市立文化芸術センター 大ホール
10月5日、豊中市立文化芸術センター大ホールでセンチュリー豊中名曲シリーズVol.31『散歩する星』を聴いた。指揮に松本宗利音、バリトン独唱に井上大聞を迎え、メンデルスゾーン、マーラー、モーツァルトの作品を取り上げたプログラムだ。おなじみとなったコンサートと物語のコラボレーションは、年間テーマ「歩み」の第2弾。プログラムノートに目を通すとストーリーテラーの藤井颯太郎氏の物語が、風変りなレイアウトで目に飛び込んでくる。
今回、藤井氏が寄せた物語は、いきなり太陽系の軌道から外れ気まぐれな動きを繰り返すようになった星、地球と、そこに住む人々の危うい日常を描いている。地球は今や時々天地がひっくり返り、地上にあるものが空へと落下していってしまうのだ。こうした世界でそれぞれの子どもを失った2人の父親が交わす会話が物語の中心に置かれ、そこにこの日演奏されるマーラーの『亡き子をしのぶ歌』の一節が引用される。「いつも思うよ、あの子たちはちょっと出かけただけなんじゃないかって」。奇想の中に時折ぽっかりとした悲しみを漂わせる藤井氏ならではの場面だ。ただ物語は短い“散歩”に再生を見出す語り手の姿で終わっていて、そこには彼の亡き息子が遺した「散歩はバランスを取り戻すための時間」という言葉が木霊(こだま)している。それは藤井氏が物語の外側で語っているように「演奏を聴くことは私たちがバランスを取り戻すための散歩のような時間」と読み替えることもできるメッセージとなっている。
コンサートはメンデルスゾーンの序曲『ルイ・ブラス』から。いつにないセンチュリーの重心の低さが、松本宗利音の指揮から伝わってくる。私はセンチュリーの持ち味の1つはアンサンブルの巧みさに支えられた透明な響きにあると思っている。各楽器の音色の間に常に一定の空気を含んだような、風通しの良い響きである。だがこの日、松本が指揮するセンチュリーには少し違った印象を受けた。低音域から高音域までが、有機的な何かによって隙間なく埋め尽くされているような密度を感じたのだ。さらに言えばその音楽は非常に純粋なものを思わせた。松本宗利音の表現でありながら同時に作品それ自体が求める表現の形、とでもいうような。
2曲目に置かれたマーラーの『亡き子をしのぶ歌』からも同様の印象を受けた。松本とセンチュリーの演奏、井上大聞の独唱はたびたびマーラー自身の人生と重ねて語られるこの曲の悲劇性とは距離を置いた、純音楽的な秀演であったように思う。井上のバリトンからは女性の声(メゾソプラノ)で歌われる時とはまた違った透明度の高い感情が伝わってくる。第2曲で聴こえる管弦楽のあてどのない響きは、この曲が20世紀を超えて書かれた作品であることを改めて感じさせてくれた。
そしてモーツァルトの交響曲第41番『ジュピター』。颯爽と開始された第1楽章では冒頭のフルートが瑞々しく響く。金管を厚く鳴らしながら、速めのテンポで音楽が進んで行く。この日のセンチュリーの音の密度を、私がはっきりと意識したのはこのあたりだったかも知れない。弦と木管の響きが溶け合う第2楽章、優美な3拍子の第3楽章を経て曲は第4楽章のフーガへと突入する。迸る水のように次々と主題が展開し曲は大きなクライマックスを形作る。中心となるのはド・レ・ファ・ミのジュピター音型だ。長身をテイルコートに包んで指示を出し続ける松本の姿は、忙しそうにも、また楽しそうにも見える。その指揮には正攻法の力強さがあった。そして長大なコーダの終わりに絶妙のタイミングで曲の速度を落とし、華やかなフィナーレを導いた。
松本宗利音の若さとそれに留まらない堂々の音楽創り。オーケストラを聴いたな、という充実感が全身に感じられるコンサートだった。聴き終えて特に私が強く感じたのが、今日のプログラム3曲が大きな1つの作品のように聴こえていたこと。同時にそこからイメージされる揺るぎない“何か”だった。その手掛かりとなるようなものが本公演に先立って行われた関連企画「~スコアから奏でられる物語を紐解く~」の中で、松本自身から語られている。1曲目の序曲『ルイ・ブラス』はハ短調で始まり最後にハ長調に転じて終わる。この曲を冒頭に置くについては、交響曲『ジュピター』と同じ主調のハ調であることを強く意識したと彼は語るのである。この統一された響きの中で音楽はそれ自体のドラマを獲得し、より大きく鳴り響いたのかも知れない。
とは言え、この日の演奏にあった揺るぎない“何か”はこうした調性の組み合わせだけですべてが説明のつくものではないだろう。そこにはやはり一期一会の、言葉にできない音楽そのもののダイナミックな力が働いていたことは確かである。その“何か”がメンデルスゾーン、マーラー、モーツァルトという、時代も音楽性も異なる作曲家たちの作品を1つに結び合わせ、一方で音楽を聴く私たちの感情をも浄化してゆく。それは(冒頭の藤井颯太郎氏の物語に立ち返るならば)まさに演奏によって私たちが「バランスを取り戻す時間」であり、多分、演奏が終わった後も続いてゆくのだと思う。
逢坂聖也
音楽ライター。大学卒業後、情報誌『ぴあ』へ入社。映画を皮切りに各種記事を担当する。現在はフリーランス
としてクラシック音楽を中心に音楽誌や情報サイト、ホールの会報誌などへの執筆を行っている。豊中市在住。