【公演レポート】センチュリー豊中名曲シリーズVol.33「アキレスと亀」
2025年04月16日
文筆家・評論家・音楽ファンなどそれぞれの視点から、主催公演を実際に鑑賞して記されたレポートをWEB上で共有するコーナー。2024年度のセンチュリー豊中名曲シリーズ4回目の公演「アキレスと亀」のレポートが、音楽ライターの逢坂聖也さんから寄せられました。
―2025.3.29(土) 15:00開演 豊中市立文化芸術センター 大ホール

3月29日、豊中市立文化芸術センター大ホールで日本センチュリー交響楽団の豊中名曲シリーズVol.33を聴いた。2024年度の最後となる今回は『アキレスと亀』と題され、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番と交響曲第7番を取り上げるプログラムだ。指揮は1月に逝去した秋山和慶に替わり、垣内悠希が登場。劇団幻灯劇場代表の藤井颯太郎氏がプログラムノートに、この題名から自由にイメージした物語を寄せた。
今年度、豊中名曲シリーズの年間テーマは「あゆみ」だった。正直に言うと、そこに置かれた『アキレスと亀』という題名が最初はよく呑み込めなかった。アキレスと亀が競争して、アキレスが絶対に亀に勝てないというあの話。いわゆるゼノンのパラドックスとして知られる話である。しかし比喩的に語られる時、それは何を表すのだろう。藤井氏の物語そのものはわかりやすく、面白かった。不器用なくせに、あまりにもかっこいい死に方をしてしまった兄。そんな兄にどうしても勝てない思いを抱えながら、兄の死と同じ年齢の誕生日を迎えた主人公。「よくこんなシチュエーションが抽出できるなあ」というのが、読んでみて最初の私の感想だった。
わかる、とかわからないはどうでも良いのだと思う。けれど、3年間、豊中名曲シリーズで藤井氏の物語とセンチュリーの演奏に触れてきて、私はいつのまにか「物語」と「演奏」というものの関係について思いを巡らせるのが楽しみになっていた。公演当日、劇団幻灯劇場の朗読パフォーマンス『声の展示』を聴きながら、私は英雄のアキレスでさえ勝てない亀の歩みについてぐるぐると考えていた。(目標の距離の)半分の点までを無限に進むことになるアキレス。そんな「無限の距離感」を持って存在するものが、音楽の現場にも確かにあるような気がしていたのだ。

▷藤井颯太郎さんによる物語はこちらからお読みいただけます
演奏は午後3時から始まった。ピアノには現在、国内外のオーケストラと共演を重ねる22歳の谷昂登を迎えた。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番はピアノの独奏から始まる。その最初の和音を、谷は分散で弾いたのだ。いや、ひょっとしたら私にそのように聞こえただけかもしれない。その音はとても軽く、鍵盤の重さをおよそ感じさせない優雅な音色だったから。その響きをオーケストラが3度上で引き継ぎ、推進してゆく。この冒頭のわずかな部分で私は心をつかまれてしまった。ピアニストの技巧を称えるのに「弱音の美しさ」ということがよく言われる。谷昂登の音色に関しても、あるいはその一言で足りるかも知れない。しかし弱音から強音、そしてその間の微細なニュアンスを巧みにコントロールしながら、その一切が谷自身よりもベートーヴェンの音楽そのものを感じさせる清々しさはどうだろう。柔和な表情を見せながら、実は大きなソナタ形式を展開する第1楽章。弦楽合奏と独奏ピアノが対話を続ける第2楽章、そして明るく感情が解放されていくような第3楽章。垣内、センチュリーの演奏もまた瑞々しい彩りに溢れ、私はそこに、この若いピアニストの音色を聴くことの幸福を感じた。アンコールに弾かれたシューマン『予言の鳥』の響きが、深い余韻を残した。

後半の交響曲第7番もまた素晴らしい演奏だった。大きなスケールを持った色彩感に溢れた7番だった。これは当日の指揮者、垣内悠希に負う部分が大きいと思う。だが指揮者が良ければ名演が生まれるかというと、ことはそんなに単純でもない。さまざまな状況が重なって生まれる一期一会の磁場のようなもの。その緊張と高揚があの場を満たしていたような気がしてならない。第1楽章、踊り出すようなフルートの響きに導かれて第1主題が姿を現す。躍動する響きがホールをたっぷりと満たしてゆく。
垣内の指揮はダイナミックでありながら、素人眼にも理解できる指示の細かさだ。センチュリーもまた、それを受け入れつつ彼ら自身のダイナミズムで音楽を主張する。この絶妙の均衡が大きな動因となってあの響きを生んだのではないか。憂愁と抑制の美しさを漂わせる第2楽章。そして熱狂とスピードに溢れた第3、第4楽章。その音の1つ1つに血が通い、鮮やかなベートーヴェンの音楽が像を結んでいく。寄せては返す波のような響きの中で、彼らが見ていたものは楽譜だろうか。それとも音と音のあいだに時おり立ち現れる、ベートーヴェンの本質のようなものだろうか。


私が「アキレスと亀」という言葉に感じた「無限の距離感」とは、おそらく「作曲家」と「演奏家」の距離なのだ。もちろん藤井颯太郎氏はそんなことは言っていないから、それはただこの言葉の中に私自身が見出した解釈に過ぎない。しかし、この解釈は作曲家と演奏家の関係をけっこううまく言い当てているような気がするし、時に「演奏」という行いの1つの真実を衝いているようにも思う。
作曲家は「亀」であり、演奏家は「アキレス」なのだ。演奏家たちは残された楽譜を手掛かりに、常に作曲家の作品に迫る。演奏とは彼らの「あゆみ」のようなものだ。作曲家は常に演奏家の目の前にありながら、絶対にたどり着けない存在であり、この不倒の距離こそが演奏家を演奏へと向かわせる大きな(そして最も純粋な)動機となるのではないか。それはまた私たち聴衆がなぜ、クラシック音楽を聴くのか、ということの理由の1つでもある。繰り返すけれど、わかる、わからないはどうでも良いのだ。ただ私は今回の豊中名曲シリーズを聴きながら、以上のような考え方にたどり着いた。それは作品と演奏について考えることの、とても良い機会になったし、きっとこの先も役に立つ「気づき」を得たと思っている。

逢坂聖也
音楽ライター。大学卒業後、情報誌『ぴあ』へ入社。映画を皮切りに各種記事を担当する。現在はフリーランス
としてクラシック音楽を中心に音楽誌や情報サイト、ホールの会報誌などへの執筆を行っている。豊中市在住。