【公演レポート】センチュリー豊中名曲シリーズVol.26「新世界の生活」
2023年07月16日
文筆家・評論家・音楽ファンなどそれぞれの視点から、主催公演を実際に鑑賞して記されたレポートをWEB上で共有するコーナー。2023年度のセンチュリー豊中名曲シリーズ初回となった公演「新世界の生活」のレポートが、音楽ライターの逢坂聖也さんから寄せられました。
―2023.6.17(土) 15:00開演 豊中市立文化芸術センター 大ホール
コンサートと物語が交差する豊中市立文化芸術センターの「センチュリー豊中名曲シリーズ」。2023年度の始まりとなるVol.26は「新世界の生活」と題され、いくつかの新しい展開を感じさせるものとなった。指揮はセンチュリーの主催公演には初めての登場となる太田弦。後半に名曲コンサートのスタンダードともいえるドヴォルザークの交響曲第9番『新世界より』を置きつつ、前半には気鋭の作曲家、坂東祐大のギター協奏曲(世界初演)を演奏するという斬新なプログラムだ。ギター独奏には朴葵姫を迎える。
本公演に劇団幻灯劇場代表の藤井颯太郎が寄せた物語は、母の死をきっかけに初めて父が生きていることを知った女性ミカが、その父と交わした4通の手紙でできている。ミカから父へ、父からミカへ。2度の手紙やりとりを経て物語は少し意外な結末を迎える。それは1つの人生へ踏み出す女性の物語と読むこともできるし、現代のある種の断面を描いたものと読めるかもしれない。しかし藤井颯太郎は「物語が音楽の説明になることも、音楽が物語の説明になることも望ましくない」と語る。とすれば、私たちはこれを音楽が導いた想像力の1つとして純粋に楽しめば良いだろう。クラシック音楽が現代に生きている私たちに、語りかけてくる「印」のようなものとして。
5月17日には関連企画として当日の指揮者、太田弦と坂東祐大を迎えたトークイベントが行われた。ともに1990年代生まれの2人は自らの作品や演奏について率直に語りあい、特に坂東はこの日の朝にオーケストラに向けて総譜を送ったばかりという新作について詳しく語っている。興味深かった点はいくつもあるが、9つの楽章のタイトルがノーベル賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケスの小説集『エレンディラ』から採られているということ。その魔術的リアリズムと呼ばれる作風に触れ、これを音楽として発展させてみたいと語ったことなどが印象的だった。また太田から「調性音楽を書く際に最初のとっかかりをどこから得るか?」と問われた坂東が「コンセプトです。絶対にコンセプト」と明快に答えたこと、さらに「迷宮を作りたいという気持ちがあって(中略)ラビリンスみたいなものをナラティブに語っていくのが面白い」と発言したことなどにも興味を惹かれた。この対談は編集されて現在YouTubeで観ることができる。この1か月後に行われたコンサートの模様を以下に振り返るが、そこでは先の坂東の言葉のいくつかをヒントに、このギター協奏曲について述べてみたい。
6月17日、午後3時。コンサートマスターの松浦奈々のもと、チューニングを終えたセンチュリーが太田弦と朴葵姫を迎えた。朴葵姫はオレンジがかったピンクのドレス。オーケストラの中央でギターを構える姿がステージに映えた。音楽は彼女の鳴らすギターの和音から始まった。ヴァイオリンやチェロとは異なる撥弦(はつげん)楽器の響き。それは西欧文化の中心としてのオーケストラとは異質な周縁部の響きである。そのギターの音が加速していく様は例えば琵琶法師が琵琶の音に乗せて平曲を語るときのような、ある種の呪術的な迫力に満ちている。ギターから不協和音が連打されると音はオーケストラへ拡大し、息つく暇もなく日常が異化されてゆく。
ギターはほぼレギュラーにチューニングされており、その響きを軸にオーケストラの音が厚い絵の具のように重ねられてゆく。「語り1/毒蛇とペテン」から始まる9つの楽章は連続して演奏される。大きくは4つの部分に分かれているようでもあるが、初めて聴く耳にはまず捉えられない。そのため楽章のタイトルが想像力を刺激するものの、聴く者は今、自分がどこにいるのかわからないような不安な気持ちを覚えることになる。
聴きながら私は考えていた。ギターは再発見された楽器である。原型は14世紀以前に遡り、バロック期には通奏低音としても用いられたが、クラシックにおける伝統は一時途絶え、長く民衆の楽器として愛好された。これを現在のクラシックギターの伝統に位置づけたのが19世紀後半のタレガや20世紀のセゴビアといった作曲家・演奏家である。では、民衆の楽器として愛好されたギターの在りようとは、いったいどのようなものであったのか?その歴史はどのようなものであったのか?それを問い直すことが坂東祐大の作品の出発点ではなかったか。もちろん、それは現実の音楽史としてはすでに明らかなことである。またスペインのフラメンコ、メキシコのマリアッチなどギターが主要な役割を果たす民族音楽も私たちは知っている。だが問題はそこではないのだ。ギターとともに「あり得たかもしれない」もう1つの世界、あるいはこの響きとともに「あり得たかもしれない」もう1つの世界を音楽によって創造してみようというのが、坂東祐大の狙いではなかったか。
さらに言えば、これまで邦人作曲家によって書かれてきたギター協奏曲の多くは、技術的にも音響的にもギターに新しい可能性を付与するという方向にあったように思う。坂東祐大のギター協奏曲はある意味でこの逆を行くものである。ここでのギターは、その領土の拡張よりも、ひたすらに楽器の根源的な響きへと回帰しようとしているような印象がある。この作品のオリジナリティはそこにあるように私は思う。
ギターとともに「あり得たかも知れない」世界を創造すること。それが今回の坂東祐大のコンセプトであり、そこに援用されたのが、ガルシア=マルケスの小説である。ガルシア=マルケスはコロンビアの作家だが、その作品の多くは架空の都市マコンドを舞台とし、汎ラテンアメリカ的とも言えるような神話的な空間を創造している。こうした想像上の空間に響き、その物語(小説の内容という意味ではない)を語ろうとするのが、坂東祐大のギター協奏曲だといえるのではないか。低弦を引っ張って指板に叩きつけるバルトーク・ピチカートのような奏法や複数の指で連続的に和音を弾き出すラスゲアードなどは、伝統的なクラシックギターにはあまり用いられないものである。これらをも多用しながらこの作品に溢れるものは、ある種の「野趣」であり、聖と俗、光と影、現実と虚構が織りなす豊饒な「語り= 騙り」の世界である。「迷宮を作りたい」と語っていた坂東祐大の意図は、こうした部分に結実していたように思う。
今、耳に残るギター協奏曲の響きと作曲者の言葉を導きの「糸」として、この作品の印象を語ってみた。だが私もまた「語り」の世界に深入りし過ぎたかもしれない。音楽の原則は自由に聴かれることである。以上に書いたことは世界初演のこの作品に触れた、新鮮な驚きを残しておきたいと思ったからに過ぎない。太田弦の精密なスコアの読みと音響バランスの創出。細部のニュアンスを活かし切ったセンチュリーの演奏。そして何より、初演者としての重圧に耐えて見事なギターを披露した朴葵姫。彼らを高く評価すると同時に、この作品の1日も早い再演の機会を望みたい。
さて、後半に演奏されたドヴォルザークの交響曲第9番『新世界より』を聴いた時、私は少し戸惑いを覚えた。いつになくオーケストラに力の入った印象を受けたのである。センチュリーの『新世界より』に私はこれまで3度接しているが、その中でも特に力の入った、豪快とも言える演奏であったように思う。指揮台の上では少年のような太田弦がきびきびと指示を出し続けている。これは私の想像だが、前半のギター協奏曲の音のバランスは相当な緊張を伴うものであっただろう。だから太田弦とセンチュリーは『新世界より』ではその緊張感をかなぐり捨てて、できるだけ自由度の高い形で(今風にいえばリミッター解除の状態で)演奏に臨んだのではないか。第3楽章以降はその豪快さにさらに拍車がかかったようにも感じられた。特に金管はホールを圧して響いた。その熱量を客席は受け止め、最後の音が消えてゆくと同時に大きな拍手が起こった。演奏終了後、客席に向かって一礼した楽団員たちの「やり切った」表情が印象的だった。
コンサートの始まる前、ホワイエでは恒例となった「声の展示」が行われた。劇団幻灯劇場の役者、宇留野花と中尾多福が藤井颯太郎による「新世界の生活」を朗読する。それぞれミカとお父さんに扮した2人には5メートルほどの距離が置かれ、そのあいだを手紙が往復する。4回の朗読が行われたが、今回はその手紙を朗読者が相手に渡しに行く場面もあれば近くにいる観客に届けてもらうという演出も取り入れられ、このパフォーマンスを興味深そうに眺める人も多かった。現在「声の展示」の受け止められ方はさまざまなように思われるが、こうした実験が次に何を生み出すかについて今年度は注目してみたい。というのも藤井颯太郎氏はこの豊中名曲シリーズをほぼ毎回聴いていて、クラシック音楽と演劇を結び付けた作品の構想にも取り組み始めているからだ。「声の展示」や「豊中名曲シリーズ」そのものから得られた何かは、おそらく今年度中にホールに届けられることになるだろう。
そして冒頭に書いた「新しい展開」の1つとして触れておきたいのが、写真家の鈴木竜一朗氏による作品である。これらの作品は当日、会場の壁面を飾ったほか、プログラムノートの表紙にも用いられ「豊中名曲シリーズ」を個性的に彩っている。淡い色合いの絵画にも見える写真は、いずれも豊中市内の風景で、多くはモノレールの中から柴原付近で撮られたものだという。インスタントカメラを使用し鈴木氏独特の技法で定着された風景は、住み慣れた豊中の街にいつもとは少し違った表情を与えている。出演者の写真や作曲家の肖像などに限られがちなクラシックコンサートのビジュアルにあって、これは新鮮な要素だ。それらはホールに響く音楽と共振して、コンサートの時間を(それが終わったあとも)とても、魅力的なものにしていると思う。
逢坂聖也
音楽ライター。大学卒業後、情報誌『ぴあ』へ入社。映画を皮切りに各種記事を担当する。現在はフリーランス
としてクラシック音楽を中心に音楽誌や情報サイト、ホールの会報誌などへの執筆を行っている。豊中市在住。