【公演レポート】センチュリー豊中名曲シリーズVol.24「修復する“歓喜”」

【公演レポート】センチュリー豊中名曲シリーズVol.24「修復する“歓喜”」

2023年01月06日

文筆家・評論家・音楽ファンなどそれぞれの視点から、当館主催公演を実際に鑑賞して記されたレポートをWEB上で共有するコーナー。6月、9月の公演に引き続き、音楽ライター逢坂聖也さんから、センチュリー豊中名曲シリーズVol.24「修復する“歓喜”」のレポートが寄せられました。

                  ―2022.12.11(日) 15:00開演 豊中市立文化芸術センター 大ホール

 コンサートと物語がクロスする豊中市立文化芸術センターのセンチュリー豊中名曲シリーズ。Vol.24「修復する歓喜」のプログラムはベートーヴェンの交響曲第9番合唱付き-「第九」である。今回、劇団幻灯劇場代表の藤井颯太郎が手掛けた物語は、香りを感じることができなくなった調香師の「僕」と、実家で油絵を描き続けている兄との関係の修復を綴っている。ホールの会報誌「アペリティフ」に掲載されたこの物語を読んだ時に、私はなぜ藤井氏がこうしたストーリーに思い至ったかについて興味を覚えた。藤井氏がこれを書くに当たっては、少しナーバスな模索の段階があったのではないかと思ったからだ。「第九」は偉大な作品である。それをどうやって伝えようか。あなたや私の物語として。この豊中市のホールで聴かれる音楽として。藤井氏はそう考えたのではないか、そんな風に思ったのである。

 「第九」は偉大な作品である。世界に向かってはじめてメッセージを発した音楽だと言っても過言ではないし、この作品以降のクラシック音楽の方向性を決定した作品だということもできる。しかし今もなお、多くの人に愛され、演奏される理由はそれだけでもないような気もする。特に日本において「第九」が年末の風物詩となったことは不思議な現象のように語られるが、そこにはやはり、よりよく生きたいと願う人々の心情が反映されていると考えるべきだろう。年の瀬を迎え来たるべき1年に備える時、少しだけ自分と向き合って今年成したことを思う。家族や友人との関係、仕事のこと、人生のこと。その時「第九」は、はるか彼方にあって全世界の理想を語るだけの音楽ではない。日常の傍にあって、希望とともに私たちの足元を照らす作品なのだ。親しみやすく、わかりやすい音楽としての「第九」。「修復する歓喜」という物語はそんな「第九」への親しみを伝える入口となったように思う。

 関連企画として11月16日には、当日の指揮者、大友直人を迎えたトークイベントが行われた。題して「大友直人のアナリーゼ~第九を紐解く」。そこでは「第九」の音楽的な側面や革新性などが指揮者としての実感を含めて語られたが、大友氏もまた、この作品の第4楽章における「わかりやすさ」を大切な要素に挙げた。特にこの楽章に初めて現れる「歓喜の主題」が、いかに平明に書かれているか、ということを大友氏は強調する。シラーの詩を原点としながらも、ベートーヴェンが自らの思いをいかに広く人々に伝えようとしたか、そのことに思いを寄せるマエストロの熱のこもった語り口が印象的だ。また同じトークイベントの中で大友氏は今回合唱に迎える東京混声合唱団に触れ、そのプロフェッショナルな技術の高さを語っている。このことは今回の「第九」のポイントの1つであり、公演へ向けて大きく期待をつなぐものだった。

関連企画「大友直人のアナリーゼ~第九を紐解く」。聞き手は音楽ライターの磯島浩彰氏(2022.11.16)
こちらからダイジェスト映像がご覧いただけます

 コンサートは12月11日の午後3時から始まった。ステージ奥から合唱、独唱、オーケストラという配置。ただし、まだステージ上にはオーケストラだけだ。大友直人が登場し、一瞬の静寂ののちに音楽が開始された。弦のトレモロとホルンが導く「第九」独特の始まり。厳粛で力強い響きが一瞬のうちにホールを満たす。指揮棒を持たない大友直人の手が、引き締まったセンチュリーの響きを牽引する。第1楽章はベートーヴェンの内面の嵐を描いたかのような楽章だ。ニ短調で強奏される第1主題、第4楽章を先取りしたかのような変ロ長調の第2主題が現れるが、これらはどこに着地するのかはっきりとしないまま、激しい葛藤を繰り返す。この音楽を大友直人とセンチュリーは絶妙な速度と均衡で駆け抜けた。部分が強調されるのではなく精緻な響きが連続する音楽だ。やがてニ短調の主題が強奏され、第1楽章は幕を閉じる。

撮影 山本成雄
撮影 山本成雄

 第2楽章は複合三部形式のスケルツォ。ここではティンパニが活躍する。印象的だったのは、通常は中央奥に配置されるティンパニが今回は(おそらく後方に歌手を置くために)左奥に置かれたため、楽器が鳴らされるたびに左から右へと音が走るような感覚が味わえたことだ。これにより私には音楽がより瑞々しく息づいたように感じられた。ニ短調ながら3拍子の軽快なスケルツォ主部、安らぎを感じさせる中間部、そして再びのスケルツォからコーダ。ティンパニが激しく打ち鳴らされ、第2楽章が終わる。ここで独唱と合唱が入場した。

撮影 山本成雄

 独唱は向かって右から片桐直樹(バリトン)、藤田卓也(テノール)、山田愛子(アルト)、並河寿美(ソプラノ)。合唱は男声14名が中央に置かれ、右にアルト8名、左にソプラノ8名が並んだ。着席のまま、第3楽章が始まる。それまでの緊張を束の間ほぐすかのような美しい響きの中、アダージョとアンダンテの2つの主題が変奏される。ちょうど中間部分あたりには印象的なホルンのソロ。その息の長いフレーズの途中、突然ファンファーレ風の動機が鳴り響く。この遠い呼びかけのようなファンファーレは、まどろむような旋律と溶け合いながら静まっていく。

 第4楽章。プレストで曲が走り出すとすぐに低弦のレチタティーヴォが現れる。左からティンパニが炸裂し、右からチェロとコントラバスが重厚な響きを創り上げる。喜びの主題が最初は静かに、そして次第に 高まりながら奏でられていく。大友直人がトークイベントで指摘した、単旋律が続く部分だ。それは長く、その響きの美しさを慈しむかのように演奏された。再び楽章冒頭の響きが現れ、バリトンの独唱が「O Freunde, nicht diese Töne!~」(おお友よ、このような音ではなく!~)を歌う。続いて男声によって「Freude」(喜び)が唱和され、独唱と合唱の全員が立ち上がる。

撮影 山本成雄

 この合唱の美しい響きをどう説明すれば良いのだろう。聴き取れるほどの明瞭なドイツ語の発音。一切のストレスを感じさせない透明な発声。それは取りも直さず、東京混声合唱団の素晴らしさである。あるいは今回の「第九」については一言で説明がつくのかも知れない。つまり「東混の合唱が素晴らしかったよ」と。しかし4人の独唱もセンチュリーのアンサンブルも、その東混の合唱と驚くほどの親和性を見せている。そしてこれらをまとめ上げ、洗練された響きのもとに統一した大友直人の指揮もまた見事というほかはない。東混とセンチュリーの「第九」は高い完成度を示し、豊中名曲シリーズにおける大きな収穫となった。ぜひ毎年の恒例となることを期待したいと思った。この「第九」を聴くためにホールへ足を運ぶ人が生まれるなら、それは素晴らしいことではないか。終演後の拍手の中で私はそんな風に考えていた。

 そして収穫と言えば、コンサート当日にはもうひとつ面白い試みが形になっていた。ホワイエ奥に小さなステージが設けられ、「修復する歓喜」の物語が幻灯劇場の2人の役者によって朗読されたのだ。これまでの2回は録音や、ごく目立たない形での朗読でだったのだが、今回はひとつのパフォーマンスとして表現されたのである。もちろんこれによってただちにコンサートと物語が立体的に結びついた、とまで言うつもりはない。ただ目の前で行われる声の表現は、やはり説得力のあるものだし、物語とコンサートのコラボレーションという当初からの狙いがここへきて明確になったという印象があった。朗読は4回行われ、その都度、観客からは拍手が贈られた。ホールと観客の距離が少し縮まったような心地良さがあった。

幻灯劇場の橘カレン・布目慶太による「声の展示」  撮影 山本成雄
「声の展示」の朗読の様子  撮影 山本成雄

 

 

逢坂聖也
音楽ライター。大学卒業後、情報誌『ぴあ』へ入社。映画を皮切りに各種記事を担当する。現在はフリーランスとしてクラシック音楽を中心に音楽誌や情報サイト、ホールの会報誌などへの執筆を行っている。豊中市在住。

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