【公演レポート】センチュリー豊中名曲シリーズVol.22「忘れられた怒り」

【公演レポート】センチュリー豊中名曲シリーズVol.22「忘れられた怒り」

2022年07月30日

文筆家・評論家・音楽ファンなどそれぞれの視点から、当館主催公演を実際に鑑賞して記されたレポートをWEB上で共有する企画が始まります。初回となる今回は、豊中在住の音楽ライター逢坂聖也さんによるセンチュリー豊中名曲シリーズVol.22「忘れられた怒り」のレポートが寄せられました。

                  ―2022.6.11(土) 15:00開演 豊中市立文化芸術センター 大ホール

 6月11日、豊中市立文化芸術センター大ホールで、日本センチュリー交響楽団の豊中名曲シリーズVol.22『忘れられた怒り』を聴いた。

 今年度、この豊中名曲シリーズでは1つの試みが行われている。それはコンサートと物語のコラボレーションとも言えるものだ。各回の演奏曲からイメージされた物語を会報誌やチラシに掲載し、それを導入に文芸センターを訪れる人たちやこれからクラシック音楽を聴こうという人たちへ、幅広くコンサートを訴求していこうというものである。

 ストーリーテラーには劇団幻灯劇場を率いる気鋭の劇作家、藤井颯太郎氏が起用された。年4回の公演に「喜怒哀楽」という4つの感情を配し、それぞれに沿って藤井氏が公演タイトルを決定。それをひとつの材料としながらセンチュリーが曲を選び、さらにその曲や作曲家の背景を題材に藤井氏がショートショート風の小説を執筆するという展開だ。こうしたプロセスを経て決まったのが、Vol.22の公演タイトル『忘れられた怒り』である。それはすでに小説化され、文芸センターの会報誌「アペリティフ」に掲載されている。また公演パンフレットにも掲載され、コンサートの観客は音楽とともにそれを読み、味わうことができる。

 私が興味を覚えたのは公演に先立ってWEBにアップされた藤井氏と今回の指揮者、現田茂夫氏の対談である。これは5月8日に文芸センターの多目的室で観客を前に行われた、今年度の豊中名曲シリーズの在り方を告知するものだ。そこでは藤井氏は『忘れられた怒り』というタイトルを切り口に、どちらかと言えば聞き役として現田氏から「音楽をする」ことの実感を引き出している。2人の対話は今回のプログラムから昨今のコロナ禍やロシア・ウクライナ情勢におよび、音楽、演劇の中に見られる古今東西、変わらない人間の“喜怒哀楽”に向けられていった。その対話は風通しがよく、どこか飄々としなやかで、2人が今回の試みを指揮者と劇作家という立場から楽しんでいる様子のうかがえるものだった。

ホワイエでの「声の展示」 撮影 明石祐昌

 コンサート当日、ホワイエの奥にはスピーカーが置かれていた。そこから流れていたのは小説『忘れられた怒り』の朗読劇である。録音された男女2人の声が物語を紡ぎ、コンサートの内容と雰囲気を共有する。その空間には10人ほどの人がいて、それぞれがパンフレットの文字を追いながら朗読に耳を傾けていた。ただ音量はあくまでも控えめ。音楽だけを聴きに来る観客の邪魔にならないよう配慮もされている。個人的には、ここにもっと集客できる工夫があれば面白いものになるのではないかと思った。

 コンサートはムソルグスキーの交響詩『禿山の一夜』から始まった。ロシアの伝承に登場する、とある禿山に集まった魔物たちの一夜の様子を描写した作品である。デモーニッシュでもありどこかユーモラスでもあるその音楽を、指揮棒を持たない現田茂夫の両手がオーケストラを操るように動きながら巧みに描いてゆく。ムソルグスキーは作曲家として大きな才能を持ちながら、生涯、音楽的な環境に恵まれなかった人だ。『禿山の一夜』は彼の自信作だったが生前は批判にさらされることが多く、死後、リムスキー=コルサコフの編曲によって有名になった。ムソルグスキーが抱えていたであろう鬱屈は、ある種の怒りでもあっただろうか。私はそんなことを考えながら聴いていた。

撮影 明石祐昌

 だが、次の演奏で雰囲気が変わった。それは『忘れられた怒り』とはまた別の感情による濃密な時間だった。ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番。ピアノにはセンチュリーとは初共演の務川慧悟を迎えた。開始早々、私は波の打ち寄せる荒涼とした海辺へ連れて行かれたような気がした。ラフマニノフの有名な第2番はロマンティックな抒情性が聴く者にも伝わりやすい。しかしこの第3番は技術的な難度はもちろん、込められた感情の複雑さ、多様さがその上をゆく。またラフマニノフの特長としてピアノとオーケストラはほとんど同時に鳴り続けるから、緊張感の途切れる間がない。務川慧悟はこうしたハードルに挑むように、強靭な意志を感じさせる演奏で音楽を創り上げていった。第1楽章、最初の「Più mosso」(ピウ・モッソ/それまでより速く)の指示から、波が大きくうねり始める。ピアノとオーケストラの色彩は絡み合いながらピークを築き、再現部の前には大カデンツァが悲壮な美しさを伴って弾かれた。

撮影 明石祐昌

 第2楽章、務川は指先の動きまでが感じられるような繊細な演奏で音を紡ぎ出す。複雑に動くワルツを経て後半の盛り上がりから一気に第3楽章へ突入すると、音楽は劇的な上昇と下降を繰り返しながら最高潮を迎える。熱気をはらんだピアノと、弾力に満ちたセンチュリーの響き。その奔流の中で曲は圧倒的なフィナーレを迎えた。素晴らしい演奏だった。音楽への集中を通して、聴衆と演奏者が何事かを分かち合った時間であったように思う。満席の大ホールにスタンディング・オベーションが起こった。ステージに呼び戻された務川は、その熱狂を静めるようにアンコールのサラバンド(J.S.バッハ:フランス組曲第5番 第3曲 )を弾き、コンサート前半が終了した。

 後半に置かれたプロコフィエフのバレエ音楽『ロメオとジュリエット』は、『忘れられた怒り』というタイトルに最も近い作品と言えるかも知れない。物語は14世紀のイタリア、対立する2つの名家に生まれた恋人同士の悲劇だが、最後に2人の死によって対立は消え平和が訪れる。プロコフィエフ自身による管弦楽編曲版が3作あるが、今回はオリジナルのバレエ音楽から現田茂夫によるセレクションである。物語の時系列に沿った抜粋ということで、各幕の区切りの部分にシェイクスピアの戯曲から台詞のナレーションが差し挟まれた。このことは5月8日の対談の中で現田氏から“特別な演出”として語られており、音楽をよりわかりやすく伝えるための実験とも言えるものだった。演奏が終わるとホールはこの日、何度目かの大きな拍手に包まれた。センチュリーの地元、豊中公演らしい温かさを感じた時間だった。

撮影 明石祐昌

 以上のような試みとコンサートそのものに触れて、感じたことをいくつか書き留めておきたい。まず『忘れられた怒り』というストーリーの設定(そして「喜怒哀楽」という年間のテーマ)について。私はこれを面白いと思う。なぜなら音楽はどのように語っても自由だというメッセージに成り得るからだ。これから音楽を聴こうという多くの人に向けて、藤井氏が手掛けるストーリーは1つのインパクトとなるだろう。一方で「演出」については、試行錯誤を続ける必要がある。人が音楽に何を求めるかはそれぞれであり、「わかりやすさ」の最大公約数を求めるのはとても難しいことだからだ。むしろ豊中名曲シリーズはその「実験」の場であってほしいと思う。

 またホワイエ奥のスピーカーから流れていた『忘れられた怒り』の朗読劇だが、これにはもうひと工夫あればと思う。ひょっとするとここでは朗読劇の必要はなく(観客はパンフレットで読めるのだから)、藤井氏に音楽と物語の関係を直接語ってもらえる場にした方がコンセプトが分かりやすくなって面白いかも知れない。現田氏と藤井氏の対談はとても興味深いものだったから、そうしたものがプレトークとして体験できる場があっても良いのではないかとも思う。いずれにせよ、私はこうした試み全体を肯定的に捉えたい。そして私はこの記事を主に“クラシック音楽”の聴き手の1人として書いたのだが、音楽と物語の接点を担う藤井氏が、この先“演劇”の側に拓く可能性についても注目してみたいと思っている。

逢坂聖也
音楽ライター。大学卒業後、情報誌『ぴあ』へ入社。映画を皮切りに各種記事を担当する。退社後はフリー。クラシック音楽を中心に音楽誌や情報サイト、ホールの会報誌などへの執筆を行っている。豊中市在住。

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